2004年10月16日ダイヤ改正。
ついに恐るべき日がきた。そう、上野口から115系が消えてしまうのである。
2001年11月30日の高崎線に続き、宇都宮線も211系・E231系で埋め尽くされる時代がついに来てしまったのである。

〜特集  上野口115系ショートヒストリー 〜


 思えば上野口に115系が登場したのは1963(昭和38)年1月。同年3月より全車非冷房車の4両編成で上野寄り基本8両+付属4両の最大12両で運転開始された。当時、東北線・高崎線で走っていた旧形80系電車の置換え用として登場したのだった。当初は80系電車に準じてグリーン車を115系にも連結する計画だったらしいが、諸般の事情で陽の目を見ることはついになかった。もし実現していればサロ111とほぼ同じスタイルで側扉も自動式のサロ115形が登場していたと考えられる。
 その後は破竹の勢いで次々に増備が行われ、1965(昭和40)年8月には東北線・高崎線80系の115系化が完了する。翌 1966(昭和41)年には国鉄新性能近郊形では初のサハが登場し編成変更が実施され4M4Tの8両固定編成が出現している。また同年小山電車区が開設され宇都宮運転所から80両の115系が転属し、ほぼ現在のスタイルが出来上がった。
 また1966(昭和41)年に中央東線に登場したモハ114-800番台は翌1967(昭和42)年に横軽峠越え用として小山区にも14両(818〜831)が配置される。このグループの増備車(60両)は0番台では唯一、新製時より横軽対策を施されており主に上野からの信越線臨時列車に充当されて急行運用に入ることもあった。
 東北線・高崎線の輸送力増強を図るため4M3Tの7両固定編成が登場して朝の通勤時間帯のみ最大15連化されたのは1969(昭和44)年10月である。115系が15連の威力を発揮するのは実は意外と遅かったのである。このときの15両編成は上野寄りから4+4+7両で、黒磯・高崎寄りの7両は小金井・籠原までの運用であった。

新製当初より横軽対策仕様の115系0番台(昭和41年1次債務・昭和43年本予算増備車)

モハ115-94〜107、モハ114-818〜831、クハ115-191〜216、サハ115-25〜30
※昭和43年製の115系はモハ115-107、モハ114-831、クハ115-215・216のみである。


 1973(昭和48)年には115系のマイナーチェンジとして冷房付の300番台が登場した。接客サービス改善として先行して登場していた113系1000番台(ATC車)に準じて全車冷房付きとし、開閉可能な窓は全てユニットサッシ化された。また乗務員室の寸法が若干拡張され運転席側には乗務員扉の隣りに小窓が追加された。さらに1973(昭和48)年製以降の車両は北陸トンネルでの火災事故(昭和47年)に鑑み不燃化対策を盛り込んだA-A基準車として落成している(300番台の登場は昭和48年のため、全車がA-A基準車である)。
 全車冷房搭載となった関係で冷房引通線が追加となったため、0番台とは異なりクハの向きは固定となった。

 300番台車の大量投入に伴い、一部の0番台(非冷房車)の岡山・広島・新潟への転出が昭和51年から始まり、また時を同じくして上野口に残った一部の非冷房車には冷房改造が実施されるようになった。
 更に1978(昭和53)年には53-10改正用として小山区に、高崎地区の旧形国電置換え用として新前橋区にそれぞれシートピッチ拡張形の1000番台が登場する。300番台をさらに耐寒耐雪構造とした車両で、M車の車端部にある雪切室が特徴である。同時に登場した仙台地区用の417系と設計思想を統一して登場したもので、番号も昭和51年に耐寒耐雪仕様として既に登場していた485系1000番台のやり方を踏襲して115系1000番台と命名されたものである。

 53-10改正では上野口の輸送力改善のため東北線・高崎線で規格ダイヤの修正が実施され、この115系1000番台によって東北線上野口普通列車の全面電車化が完了して東北線・高崎線の普通列車は一部の急行形電車使用の普通列車と旧形客車使用の高崎線の1往復を除き115系のオンパレードとなるのである。普通列車については東北線・高崎線ともほぼ30分おきの運転となったが、今では考えられない状況がこの頃は当たり前だったのである。

 55-10改正では高崎線増発のため新前橋区に1000番台4両編成×3本が新製配置されたが、今回増備分よりクハ115-1100の設計変更が実施され将来便所に転用可能な業務用室が設置され入口のドアには『業務用』と表示してあった。結局後には便所に改造されている。

 1982(昭和57)年6月23日、東北新幹線大宮−盛岡間が先行開業し上野−大宮間のメインアクセス用として同区間ノンストップの『新幹線リレー号』(新前橋区185系200番台を使用)が登場したが、当初185系は高崎線急行などにも使用されていたため所要数が足りず下り3号のみは新前橋区115系15両編成が使用された。
上野から東大宮操への回送列車をそのままリレー号として流用したため列車番号は下り列車にもかかわらず4844Mと偶数番号が与えられている。
 東北・上越特急全盛期のころは特急・急行列車が主体で普通列車は隅に追いやられたようなダイヤだったため、現在とは異なり当時の115系はほとんど目立つことや話題に上がることはなく実に地味な存在だった。

 1982(昭和57)年11月15日、東北新幹線大増発・上越新幹線開業に伴い東北・上越特急が大幅に廃止となった57-11全国ダイヤ白紙改正では1000番台車最後の増備(11両)が行われて新前橋区に配置され、最後まで上野口に残っていた旧形客車使用の高崎線1往復が115系に置き換えられる。この11両(T1209〜1211)は上野口115系で唯一、新製時より塗り屋根仕様となっていたことが最大の特徴である。
 この57-11改正対応で増備された11両をもって115系の増備は打ち切られ(3000番台を除く)、当時注目されていた115系の2000両突破は残念ながら達成されなかった。
また、57-11改正では新幹線の大宮暫定開業を考慮して上野発着急行列車の大部分が残ったため東北線・高崎線の普通列車は一部が165系・455系で残ったものの、残念ながら普通列車の増発はされなかった。
 なお、蛇足ながら昭和57〜58年頃、新前橋区のT6編成クハ115-11を対象に乗務員室前面ガラス用散水装置(自動車のワイパーウォッシャー装置と同様のもの)の試験が実施され、前面下部(運転席側)に散水装置およびグレー色の四角い水タンクが設置され異彩を放っていた。

 誕生以来、ダイヤ改正の度に車両増備が行われてひたすら勢力拡大の道を突き進んでいた115系であるが、今度は今までとは異なった形での勢力拡大を余儀なくされることとなった。
 その元となったのは1984(昭和59)年2月1日に実施された59-2改正である。
この改正では東北線・高崎線とも朝夕を中心に増発があり、特に朝の時間帯に東北貨物線を経由する赤羽行が初登場する。上りのみの設定で、当時の赤羽駅東北貨物線ホーム(1983年10月、赤羽線ホームが高架になったため在来の赤羽線ホームを転用)は単線であるため赤羽到着後は直ちに東大宮操へ回送され、夕方には上野発の普通列車として下る列車が東北・高崎線とも各2往復設定された。また、一部の列車に対し編成増強が行われている。
 このために115系が大量に必要となったが、既に115系は増備打ち切りとなってしまっていたために全国各地から地方線区の編成短縮化で余剰となった車両が小山・新前橋区に集結することになる。岡山・広島からはMM'および奇数向きTcが、長岡からはサハ115がやってきた。
 逆に今度は地方で偶数向きクハが不足したため、小山・新前橋両区から偶数向きクハ115が広島地区に転出している。
 この転配のおかげで上野口では今まで見ることが出来なかったサハ115-1000冷準車が多数見られるようになったが、冷房率向上のため同年秋頃から冷改がスタートしている。
 また今回は三鷹からもサハ115が転入したが先頭車化改造されてクハ115-610となり、早速上野口でも改造クハが登場した。今改正でどちらかというと画一的だった115系に改造車など各タイプが出現してきたので編成ごとに車種のバラエティーが楽しめるようになった。
 因みにクハ115-610は上野口の115系では唯一、先頭車化改造時に横軽対策が追加施工された車両である。
また広島から転入したモハ115・114-63のユニット2両は広島時代に側面行先表示器取付改造を受けた車両で当時行先札を使用していた東北線・高崎線では異様な存在だった。当然白紙表示で使用されていなかったため1989(平成1)年の車両更新改造時に準備工事に戻されている。






  ← 画像は長岡から転入後、冷房改造を受けて間もないサハ115-1022を撮影したものだが、サハ115が行先札使用で表示器が準備工事なのに対し、右の2両(MM'63)には行先表示器が装備されていることがおわかりいただけるだろうか

  Y63-71 1984.11.-4 籠原電車区








 1985(昭和60)年3月14日、東北・上越新幹線大宮−上野間が開業となった60-3改正では東北線・高崎線普通列車の大増発が実施され30分ヘッドから20分ヘッドに改められた。このため車両が大幅に不足するので59-2改正に続き115系がかき集められることになり三鷹・松本・新潟・沼津からの転入車が小山・新前橋区に集結した。
 このため前回の59-2改正でのサハ115-1000に続き今度はモハ115・114-1000の冷房準備車が上野口に登場することになるのである。
この結果、上野にやってくる115系の数は小山・新前橋区合計で859両という大所帯となり、車両数の面ではこれがピークとなる。また、60-3改正で上野口急行列車が一部を除き全廃され余剰となった新前橋区165系は全て3連化されて日光線・両毛線・吾妻線列車の大半に転用され、これまで高崎地区に閉じ込められていた新前橋区のクモハ115を含む3両編成組は大半がサハ115-1000を組み込んで4連化されて高崎線上野口に転用され上野に姿を現すようになる。この頃は冷房準備車・スカ色・クモハ115・特保車など列車ごとに違う車種・タイプが見られ、上野や大宮で1日いても飽きないくらいだった。
 この60-3改正をもって上野口の普通列車は東北線については全列車が115系となり、高崎線は185系による1往復を除き全列車が115系となった。

 しかし、このような115系黄金時代もそう長くは続かず同じく1985(昭和60)年12月には当時115系の後継車と言われた211系が新前橋区に登場する。115系に黄信号が点灯した。211系は翌年の61-3改正を待たず61年2月15日から運用開始され、徐々に115系が離脱を始める。
余剰となった115系は当時広島地区で行われていた111系淘汰のため0・300番台約60両を対象に広島・下関への転出が始まり、211系国鉄時代発注分165両が出揃った時点で残念ながら状態の悪い非冷房車を対象に115系の形式廃車がスタートした。
1982(昭和57)年以来常磐線415系500番台で試行を続けてきたロングシート車についても211系投入を機に東北・高崎線にも拡大することになり、211系3000番台車が多数増備されたためにオールセミクロスの115系列車が貴重なものに感じるようになったのは実はこの頃からだったような気がする。

 国鉄最後の61-11ダイヤ改正では東北線・高崎線普通列車がさらに増発され、日中は各々1時間に4本の体制となる。このうち1本は両線とも大宮発着の列車で大宮−小金井・籠原間の列車である。この区間運転の列車は115系4連・211系5連と短い編成で運転されていた。この改正により東北線(大宮−小金井間)にも211系がデビューするが、1往復のみで当時は1000番台(B編成)の限定運用だった。
 国鉄解体直前の1987(昭和62)年 3月にはモハ115-41+モハ114-34という特異なユニットが誕生している。新前橋区の配置で、恐らく上野口では初であろう両毛線での115系の事故廃車が原因と考えられる。


 国鉄時代、115系は全国的に見ても57-11改正時点までは形式間改造など番号変更を伴う改造車が1両も発生しなかった珍しい形式であったが、59-2改正で地方線区の編成短縮化が行われるに伴い中間車の先頭車化改造が1983(昭和58)年夏から始まり、500・1500番台など非常に多数の改造車が登場したのは皆さんご存知のことと思われる。
 また、延命を目的とした特別保全工事も115系については1983(昭和58)年からスタートし、初期に改造された3両(モハ115・114-71、サハ115-33)は室内が更新されず原形のまま出場したが、翌1984(昭和59)年以降に施工した車両からは室内配色を暖色系に変更してアコモ改良車として出場している。アコモ改良車のトップはサハ115-22である。
 115系の特別保全工事は新前橋車についてはT34の4両のみで大井工場の施工、小山車は全車が大宮工場の施工である。
ここでも両区の違いが出ており、新前橋車は103系特保車とほぼ同じ化粧板を使用し、セミクロス席の枠は黄土色に塗装しただけであったが小山車の場合は化粧板は原形の薄緑色の流用でクリーム色地で図柄入りの壁紙を貼ったもの、座席枠は清掃の簡略化を目指して樹脂製のカバーが被せられたものと、同じ延命工事でありながら両区で仕様が異なっている大変珍しい例である。



 国鉄時代、115系は1963〜1983年まで約20年6ヶ月にわたり1900両以上増備が行われ、103系と並んで国鉄鋼製電車史上製造期間が20年以上に亘った稀な形式でもある。
また、忘れてならないのは形式廃車が始まる1986(昭和61)年までなんと廃車が事故を含めて1両も発生しなかったことで、101系以降の新性能電車では最長であり文句なしで名車であると言えよう。

 国鉄末期になってちょっとだけ影がうすくなってしまった結果に終わり、ついに1987(昭和62)年4月1日、国鉄の分割・民営化を迎えるのである。3月31日に運用終了した車両から順に脇腹に白のJRマークが追加されていった。


 JRになってからは暫く動きはなく、211系が民営化後も細々と増備が続いていたのにもかかわらず増発目的のための新製ということもあり115系の廃車はほとんど出ておらず115系にとって比較的安定した時期が続いた。また、民営化後初のダイヤ改正(白紙改正)である63-3改正において大宮終着の東北線・高崎線中電の池袋延長が実施され115系が池袋に乗り入れを開始するが、他は60-3改正以降常識となっている日中7〜8両の短編成のままの地味な運用が続く。
因みにこの63-3改正で青函トンネルが開業し、寝台特急『北斗星』が運行を開始した。
 国鉄時代には一時期(昭和59年)に東北線で数回、臨時列車として設定されているに過ぎなかった快速列車も63-3改正にて東北線に快速『ラビット』・『スイフト(現・通勤快速)』、高崎線には快速『タウン(現・通勤快速)』が登場し、普通列車ばかりでなく快速列車としても活躍するようになる。1989(平成元)年3月改正では高崎線に快速『アーバン』が追加された。

 1988(昭和63)年より将来の老朽取替の平均化のために今までの特別保全工事に代わって耐用年数20年延長を目標とする車両更新工事が開始され、小山区115系では1989年1月のY74を皮切りにスタートしている。続いて同年2〜3月にはY76・Y103(3両のみ)に施工された。
 一方、211系が段々増えていくなかで当時全車セミクロス車だった115系も利用客の増加に伴い朝ラッシュ時の混雑が激しくなる傾向にあり、1989(平成元)年12月には上野口115系では初のロングシート改造車9両(Y411-412とY426のMM')が登場、常磐415系に続いてロング化改造が一部のオール300番台7両組を対象に行われている。
翌年の1990(平成2)年3月のダイヤ改正で新前橋区の7両編成は全て小山区に移管され新前橋区には3・4両編成組が残るのみとなる。

 さて、ここまで冷改および先頭車化改造以外ではスタイル的にあまり変化が見られなかった小山区115系であるが、1989(平成元)年にはクハ115-0番台のうち一部の車両を対象にデカ目のままヘッドライト部分のみシールドビームに変更された車両が登場している。
 恐らくMF化が目的と思われるが、改造された車両は以下の通りである。

クハ115-112(Y371-58)、120(Y822)、122(Y63-71)、123(Y1134-65)、139・140(Y72)、147・148(Y76)、170(Y444)、193(Y108)、196(Y103)、203・204(Y823)、224(Y121)


 また、1989(平成元)年5月20日に上野−尾久間にATS-Pが導入された。これに先立ち同年3月よりクハ115全車を対象にATS-Pを増設する改造が行われるようになった。
短期間で大量に改造しなければならなかったため、大宮工場だけでは到底対応しきれず新津車両所・小山区・新前橋区・松戸区・浦和区・田町区・国府津区など首都圏各地の基地でも改造が行われた(もしかしたら仙台455系車両改造のように車両を実際に各所に回送したものではなく、各所の人員のみ出張させて対応したとも考えられる)。
 ATS-P改造中は各編成のクハ115が引き抜かれて不足するため、暫定的に211系投入以降余剰となっていたクハ115との差替が実施された。
 特に、4両編成を2本暫定的に併結してクハ1両を脱車した7両編成の存在が目立った。


暫定的に組替えられた編成一覧
編成番号 Tc' M' M Tc 確認年月
Y391 444 391 365 14 90.
Y74 144 74 74 49 90.
Y435 488 435 409 14 90.10
Y56 108 56 56 193 90.11
Y108 340 108 122 55 91.5
   
編成番号 Tc' M' M Tc M' M Tc 確認年月
Y440・439 492 440 414 316 439 413 97 90.
Y406・424 216 406 380 1224 424 398 1131 90.9
Y1107・103 416 1107 1046 196 103 117 228 90.9
Y414・413 466 414 388 T37 413 387 28 90.11
Y423・418 476 423 397 470 418 392 221 91.7

  
青字は暫定的に組み込まれた車両を示す。
  全て管理人による調査で確認出来たものだけである。








 今まで大半が115系で占領されていた小山電車区に1990(平成2)年5月、思いがけない事態が発生する。小山区に211系3000番台35両が初めて配置されるのである。当然115系は引っ掻き回され最後まで残っていた非冷房車は全車運用離脱し、ここで宇都宮線
(※)・高崎線中電の100%冷房化が完了する。また、中間モハのみ300番台でクハのみ0番台という4両編成組が多かったため当時すでに老朽化の激しかった0番台クハを対象に置換えが行われ、当時高崎地区165系の置換え用として転用され再び3連に短縮されて大量に余剰となっていたサハ115-1000番台をクハ化する改造が行われ、ここで小山区にクハ115-1500番台(1505〜)が初めてお目見えする。また、一部の編成を対象に奇数向きクハを1500番台に置換え、余剰となった300番台奇数クハを方転改造して偶数向きとなった車両が4両出現(クハ115-313・341・377・389)してクハ115の形式改善が行われたのもちょうどこの頃である。

1990(平成2)年3月10日のダイヤ改正で上野−黒磯間に『宇都宮線』の愛称がつけられた。

 211系が小山区に配属になってからは0番台車がだぶつくようになり、一部の車両は他区への貸出しが始められる。
 トップを切ったのは1990年7月に幕張へ貸し出された非冷房車4両で湘南色のまま房総地区で運用された。次いで同年8月には113系スカ色塗りとなった6両が、翌1991年5月にはこの6両編成の一部差替で5両がスカ塗りとなって貸し出された。
 以降、1993年11月までの間に上沼垂・長岡・豊田・新前橋に冷改車を含めかなりの数の小山区0番台が貸出されている。
 なかでも特異だったのは1992年10月から長岡に貸し出されていたMM’71のユニットで、幕張貸出時代のスカ色のまま新ナカN15編成に組み込まれて旧新潟色+スカ色の混色となって上越線を走る姿が見られた。なお、このMM’71のユニットは1993年3月13日のダイヤ改正に伴い運用離脱している。

Mc1061−M’1087+
MM'71+Tc’1061 (1993年1月16日、湯沢中里スキー場内にて調査)

また、1990年度末からは各地で訓練車が配置されることになり115系についても一部が職用車に改造編入されモヤ115・モヤ114なる形式が誕生した。
小山区ではY70・Y79が、新前橋区ではT47が訓練車用に転用された。また、1995(平成7)年には冷改車への差替えが行われ小山区にはY822が、新前橋区にはT56が追加で転用改造されたが、T56編成はモヤへの形式変更はされなかった(これらの動きにより小山・新前橋区の非冷房訓練車は消滅)。
 このうちモヤ115-2(旧・モハ115-70)+モハ114-70の2両は60-3改正で新潟から転入してきた車両で、非冷房車でありながら塗り屋根になっている異端車である。

小山・新前橋区訓練車一覧
編成番号 Tc M' My  Tc モヤ改造 所属 廃車
Y70 214 70 2 213 91.3 小山 95.5
Y79 154 79 4 153 91.3 小山 95.4
T47 92 47 3 91 91.3 新前橋 95.5
Y822 120 822 5 31 95.3 小山 02.11
T56 72 56 56 28 新前橋 01.5


  
青字はモヤ115を示す
  またT56の小山→新前橋の転属は94年8月〜12月であるが、『訓練車』の文字が入ったのは95年春頃と考えられる。







 翌1991(平成3)年には小山区に追加で211系45両が新製配置され115系の置換えがさらに進められる。前年非冷房車がなくなったと思っていたら今度はとうとう0番台冷改車にまで廃車の手が及ぶことになりクハ115-8・14・40・97など特徴のあった初期形冷改クハが次々に廃車となる。
また、一部の1000番台についても今回211系置換えの対象となり、余剰となった1000番台は長野・新潟地区の増発のため一部のモハ115-1000はクモハに改造され転出となり上野口を去っていった。
 この段階で民営化当初と比べてもかなりの規模縮小となったしまったわけであるが、211系の増備が打ち切られたということもありここから先は一部他地域への貸し出しなどの動きはあったが2000年まで民営化後2度目の安定期に入ることとなり、これが上野口115系全盛期最後の姿となるのである。
 また、1991年夏頃より国鉄時代からずっと青色だったモケットが茶色系の新柄のものに張替えが実施されるようになった。同時に新製時(冷改車は改造時)から準備工事のままだった側面行先表示器も順次本工事が実施され1992(平成4)年3月のダイヤ改正から使用開始された(ただしサハ115-22と一部のインバータ冷改車を除く)。

 首都圏配置の103系・115系等を車両更新工事・検査等の理由で交流区間内の郡山・土崎両工場へ入場する際の機関車連結用控車としてモハユニット両側の連結器を自動連結器に交換した回送用伴車が1992(平成4)年 7月に登場した。
 小山区のモハ115-61+モハ114-61 2両が改造されて入場車の両端に連結されたが、営業車ではないため使用していくうちに段々と薄汚れていった。1997(平成9)年8月に廃車となっている。115系に切り替わる前は川越区のモハ103-67+モハ102-67が同様の改造を受けて使用されていた。

 1992年9月14日、成田線で遮断機が降りている踏切に大形ダンプが突っ込み、後からやってきた113系電車が衝突・大破し乗務員が死亡する大事故が起きた。
 これを重く見たJRは先頭車で前面強化未施工の車両に対し強化工事を強力的に推進することになった。対象は通勤型から急行形車両まで幅広い範囲(昭和47年までに製造された車両)にまで及び、当然小山区115系も一部の0番台クハが対象となった。
 これは厚さ約7〜8mmのステンレス板を車体外板に溶接するもので、一挙に大量に施工されたため初期に改造された車両は工期短縮のためステンレス地むきだしのスタイルで登場し話題となる。同時にデカ目はシールドビームに変更されている。
 小山区115系ではクハ115-147・148・170の3両が登場した。このうちクハ115-170は前述の通り1989年にデカ目のままライトのみシールドビームに改造され、さらに今回の改造で正式にシールドビーム化改造が行われた車両である。

デカ目?シールドビーム? どちらなのだろうか
クハ115-193 93.7.10 大宮駅
通称『鉄仮面』と呼ばれたステンレス地剥き出しの改造車
クハ115-170 93.7.-3 大宮駅



 211系への置換えが一段落した1992年以降は横須賀線にE217系が入ったり、常磐線にE501系など新形式車が投入されていたにも拘わらず115系の動きはほとんどなく時刻表での確認が不要なほど宇都宮線・高崎線では普通に115系が走っていた。
 そんな中、1998年12月改正では宇都宮線の増発(朝の時間帯に古河発を新設)があったが115系が捻出できなかったため、当時横須賀・総武快速線E217系投入に伴い余剰となっていた113系1000番台34両がピンチヒッターとして115系塗装(湘南色)となって小山区に登場し話題となった。主に池袋発着の列車に使用していた。

 だが、1999(平成11)年、ついに上野口に115系置換え用の新形式車を投入すると発表があり、翌2000年に登場したのがE231系1000番台(E231系近郊形タイプと呼ばれる)である。第1陣はおとなしく45両が登場してまずは暫定的に宇都宮線に入っていた113系1000番台の置換えに使用され(2000年6月)、同年12月のダイヤ改正までに210両がすごい勢いで次々に投入されていき上野口115系のシェアはこの時点で一挙に半分程度までに暴落してしまう。
 新前橋区所属車の高崎線用115系はこの改正で全車小山区に移管されている。国鉄時代から長く続いた小山区・新前橋区所属車を複雑に併結する高崎線普通列車が姿を消し全列車が小山区配属車の運用となる。また国鉄時代の60-3改正から続いていた7〜8両の短編成列車も今改正で消滅したものと思われる。
 E231系の正式運用開始に伴い余剰となった115系のうち比較的状態の良い300・1000番台84両を対象に松本運転所への転属が開始され、新長野色への変更・パンタグラフのPS35系への交換が実施されて中央東線に去っていった。

 以降、E231系増備の勢いは減速することなく大量増備が続き、2001年9月には高崎線にもE231系の運用が開始されたが高崎線に入った途端115系はさらに急速に減少する。2001年12月1日の改正で湘南新宿ラインが開設され所要数が大幅増となった関係で115系はとりあえず大量廃車は免れたが2001年11月30日限りで高崎線から115系が消滅した。
 今回開設された湘南新宿ラインにも宇都宮線からの115系運用が設定されたが、1日1〜2往復の少ないもので東海道線区間では同じ湘南色の113系との併走も見られた。115系衰退の時期に湘南新宿ラインが開設されたおかげで115系の全面置換えが大幅に遅れる結果となったことは実に不幸中の幸いだったといえる。

 2002年も引続き115系淘汰は続けられ7月に実施された運用変更では折角登場した湘南新宿ラインからも撤退することになり池袋までと上野口中心の運用となる。また、同年12月の改正では変化は思ったほどは見られなかったが翌2003年2月に実施された運用変更で115系で残った列車のうちの大半がE231系に置き換えられ宇都宮線115系はついに10往復程度を残すのみとなり、いよいよ引退へのカウントダウンが始まる。
 今回の置換えで50両もの大量の115系が東大宮操に疎開され解体の日を待つ日が続いたが、東大宮操で肩を寄せ合うように隅っこにまとめて留置されていた姿は115系最盛期の国鉄時代を彷彿させるようで見るだけでも実に辛いものだった。
 実はこの時の置換えで小山区115系からモハ115・114、クハ115の各0番台車が姿を消したのである・・・

 そして、2004年・・・ 3月のダイヤ改正で週末を中心に宇都宮線の115系普通列車は宇都宮以南を中心に一挙に倍増となり115系ファンを喜ばせたものだがこれもつかの間、7月の運用変更で半分程度が今度は国府津から借り受けたE231系に置き換えられる。全く予想しなかったことだった。再び1日10往復程度に・・・

 そして、2004年10月16日のダイヤ改正でついに全車が定期運用から離脱してしまったのだ。  波動用でいいから少しくらいは残って欲しいと考えているのは私だけではないはずだ――― 
 最後までしぶとく残っていたのは7連4本+4連5本の48両で改正を機に211系・E231系などの後輩に舞台を譲り、上野口115系はついに歴史の流れの中にすべて消えていった。








〜想い出の115系
国鉄時代のクハ115-169 82. 7.-3 大宮駅 582M 57-11改正までは高崎線115系の一部には荷電が併結されていた
82. 6.12  大宮−東大宮(当時) 565M 115系使用の4844M新幹線リレー3号 82.11.-7 上野駅
60-3改正から東北線のみ青地のサボに変更された 上野から長岡までは約6時間 729M  85. 2.17  上野駅
国鉄時代の特保車はエンジ色のモケットだった 快速ラビット登場時の頃は非冷房車も充当された
Y413-414 04. 8.-1 東鷲宮−栗橋 04. 5.-2 東鷲宮−栗橋
04. 2.-3 大宮駅6番線より 04. 2.-3 大宮駅6番線より
03.10.19 東鷲宮−栗橋 Y372 04. 5.15 土呂−東大宮
ヤマ115系最後の夏  04. 8.-2 東大宮−蓮田 04. 912 東鷲宮−栗橋

04. 7.-3  土呂−東大宮 大宮駅改築前でのクハ115-159  80. 5.24 東北線582M
スカ色訓練車との並び  97. 6.15 尾久駅 デカ目は美しい  87. 5.-4 大宮駅
特別保全工事施工車は小さく『保』の標記がある 『北ヤマ』→『東ヤマ』→『宮ヤマ』と変化した
横軽対策車を示す●マークはいつのまにか消えていた セミクロス車の室内  クハ115-472

トイレ部分 ユニット式のようである 0番台とは異なり乗務員室は完全に独立できる構造
先頭車の貫通路部分 冷風吹出口の調整板はJRになってから取付けられた
300番台後期型のみに付く主電動機冷却風取入口 初期形にはない テーブルもJRになってから取付けられた
近車製の一部の車両は国鉄時代から化粧板の色が薄かった 国鉄時代、日中大宮でも半自動扱いする列車があった
300番台は半自動扱いすると手動での開閉は大変重かった これも国鉄近郊形独特のもの
ロングシートに改造された車内  モハ115-399 車端部は6人掛シート
車両更新車の室内  モハ114-375 こちらは3人掛シート
クロスシートは旧形80系電車用によく似た外観である モケットは最近標準となった青系統のもの
Hゴム支持から金属板押さえに変更された車両も存在する とても廃車間近とは思えない


115系最後の残像 〜消え行く小山115系たちへのノスタルジー 
上り最終664M   04.10.15 大宮駅 湘新ライン大増発の裏に115系消滅あり・・・
下り最終3551M  04.10.15 上野駅 R窓とユニット窓のSpecial Rendezvous・・・
快速 那須ハイク号  04.10.23 大宮駅 小山115系達へのレクイエム  04.10.23 大宮駅
快速 那須ハイク号車内  04.10.23 いよいよ新旧交代  04.10.24 宇都宮駅
通常の営業運転を終えて東大宮操に回送される 115 FOR EVER・・・


そして2005年―― 115系は走った!!

 115系引退を記念して2005年 1月15日にJR大宮支社の主催で『41年間ありがとう!! さよなら115系』が運転された。
黒磯寄りからY427+Y367−368の11両編成で国鉄時代の再現で全車に往年の行先サボが掲出された。
この運転を最後に実質42年弱に亘る宇都宮線115系の歴史の幕が降りたのである。

115系のうち一部の車両は今後事業用として残ることになる―――

最後の営業状態の115系  05.1.15 黒磯駅 クハ115-427側のヘッドマーク
営業運転を終え東大宮操に回送される115系 05.1.15 宇都宮駅 クハ115-420側のヘッドマーク
特製のサボが用意された こちらは山側 こちらは海側のもの
国鉄時代の白サボも登場した 今後は事業用として活躍してくれるだろう   05.1.29 大宮駅





〜最後に、引退にあたって〜


2001年11月に高崎線から撤退となり、今回とうとう宇都宮線からも消えることになってしまった。2000年6月のE231系稼動開始以来、着々と置換えが進められていたのである。そして東北特急エイジ時代を知り、今まで連綿と走り続けてきた小山115系の存在を我々は忘れてはならない。引退後大宮運転所や東大宮操で任務を終えて解体を待っている115系を見ることができる。もし出会った時には心の中で盛大な拍手を贈ってやって欲しい。そして関東ではわずかに高崎地区で走っている新前橋区115系が昔ながらの湘南色のままいつまでも走り続けることを願ってやまない。



壁紙の画像は2004年5月2日、宇都宮線東鷲宮−栗橋間にて撮影

<よみもの>のページに戻る