第9章:1983(昭和58)年(第3部)

57-11改正後は大宮−上野間の新幹線連絡輸送体系が大幅に整備され、新幹線リレー号が目立つようになりました。
東北特急も4往復のみとなって9連となり、1つの時代が終わったと実感せずにはいられませんでした。
特急が廃止されても普電の増発は行われず、当時の東北・高崎線は閑散ダイヤとなってました。
これが一変するのは60-3改正以降になります。



大宮駅9番線に停車するあいづです。新幹線工事が完了したこともあり、ほぼ現在と同じような雰囲気になっています。
隣の川越線用11・12番線はホーム拡幅工事が行われ、9番線と11番線の間にある貨物専用線は1本となりました。
やまばとは下り2本・上り1本が残りました。
つばさと合わせて3往復が設定されていますが、60-3改正で福島発着のつばさに吸収される形でやまばとは上野−福島間が廃止され消滅しました。
つばさは60-3改正以降も1往復が残りました。
事実上東北特急復活という形で上野・大宮−青森間(上りは大宮止まり)に設定されたふるさとで、新幹線救済臨です。
583系13連でしたが、食堂車は営業休止です。

さすがにはつかりの名を冠する事は出来なかったようです。
1983年夏に突如登場した“新幹線リレー号”の101系6連で、大宮−武蔵野線府中本町間を結ぶ連絡列車です。
ちょうど今の快速むさしの号と似たような性格の列車で、武蔵野貨物線大宮支線経由です。

右側にはEF64-1000の牽引する車扱貨物列車が見えます。
当時の貨物といえばこのような貨車を1両単位で連結した混載列車が主体でしたが、次の59-2改正で車扱貨物のコンテナ化(高速・直行化)が大規模に実施され、各地で見られた貨物ヤードは不要となり姿を消しました。
新幹線リレー号は30分おきに運転され、車両も185系200番台に統一されました。

東北新幹線開業時から上野・大宮両駅には「リレーガール」と呼ばれる女性案内係が配置され、乗換客に対する案内業務に就きました。
東北と上越で大宮に到着する時刻がずれていたために上野行新幹線リレー号の1〜7号車は上越新幹線からの乗客用、8〜14号車は東北新幹線からの乗客用に振り分けられています(ただし上野発リレー号には適用されません)。
新幹線の高架線はここで終わっていますが、この頃から大宮−上野間の工事が本格的に始まり、徐々に基礎工事が進められています。

ここは旧大宮機関区があった場所で、今の大宮運転区とJR大宮支社がある場所です。白帯一条を巻いた大宮工場配給貨車や入場する115系と保存される事になったED16が留置されています。
さて、ここで撮影していたら偶然にも御召列車が通過しました。
牽引車は田町区183系1000番台でクロ157は旧塗装です。クロを中央に連結した7連でした。

60-3改正で牽引車は185系に変更され、クロ157も185系に合わせた塗装に変更されて現在に至っています。
ここからは上野での画像です。

17・18番線に165系が並んでいますが、左は新前橋区の165系、右は新潟運転所の165系でクモハとクハが並んでいます。
新前橋区の165系は169系と同様横軽通過の関係で重量のあるクモハを上り向きとした関係で逆向き配置となっています。
同じ理由により新前橋区185系も逆編成となっています。
ボンネットクハ489による白山で、隣はあさまの189系です。

57-11改正で上野駅の発着は大幅に変わり、地平ホームは特急・急行専用となりました。
高架ホームは普電と新幹線リレー号が主体となりましたが、収容能力の関係で普電の一部は地平ホーム発着となっています。
本数こそ減ってしまいましたが、時間帯によってはこのようなかつての特急競演が見られました。
12番線に停車中の常磐線快速103系です。
常磐線はATC化されず103系は低運車だけの配置で取手側は全てクモハであり、国鉄時代は高運車は配置されませんでした。
エメグリ高運車が登場するのは同線103系が15連化された63-3改正でのことであり、民営化されてからです。

ですが59-2改正で一部編成変更が行われ、両端がクハ(いずれも低運車)の編成が登場しました。
常磐線の中距離列車はローピン三昧でした。

415系は1985年のつくば万博開催による常磐線のイメージアップのために全車を対象に塗装変更が実施され、60-3改正でローピンが消滅してしまいました。
白電も悪くはないのですが、当時は何故か“国鉄色”という実感はなかったのが不思議です。

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