第8章:1983(昭和58)年(第2部)

今回は57-11改正での夜行列車中心の画像です。

上野口の客車列車については新型客車化がほぼ完了し、14系が広範囲に転用されて急行列車に充当されました。
20系も縮小化され天の川と津軽で残るのみとなっています。
機関車についても新型化が進められ、EF64-1000・EF65PFが主体になりEF58の淘汰が行われています。



20系天の川を牽引してきた旧塗装のEF64 1001です。
上越線からの列車はほぼ全列車がEF64-1000に置き換えられてEF58による列車は消滅しました。

20系の方はA寝台が2両連結されています。
583系のはくつる2号が17番線に停車中です。

上野駅も工事が進んできて17番線では現在見られるような太い柱が立ち始めました。
この後人工基盤の建設が始まり、真っ暗になってしまいます。

当時の16・17番線は現在のように特急専用ホームにはなっておらず、普電も発着していました。
ここから東京駅の様子です。

紀伊勝浦からの紀伊号で、出雲3・2号と併結です。
次の59-2改正で紀伊は廃止され、出雲3・2号の単独運転となっています。

まだこの時の14系は3段寝台でした。翌年の1984年からB寝台の2段化改造が始まり、速いペースで改造されこの1年後には2段化が完了しています。
1982年の大晦日から登場した14系による臨時の踊り子です。
主に品川区の14系10連が使用されました。

機関車は東京区のEF58・EF65が担当します。

画像は7番線での撮影で、この位置は現在の9番線に当たります。
この日は偶然にもEF58 61の牽引でした。
時折踊り子牽引に抜擢されていました。その日によってどのカマが出てくるか楽しみな列車でもありました。
奥には山手線の103系が見えます。
当時の東海道ブルトレのカマといったらEF65PFでした。

寝台特急は53-10改正からPFの独壇場となっており、東京機関区のカマで独占していました。
ですが60-3改正ではやぶさにロビーカーが連結されることに伴い、牽引定数の関係でEF66に交代したのはまだ記憶に新しいところです。

当時の24系は現在のように個室B寝台やロビーカーなどというのはなく、A個室とB開放寝台、そして食堂車だけの構成でした。
一旦上野に戻ります。

583系ゆうづるですが57-11改正でも3往復が残り、客車と合わせて計5往復が設定されていました。
画像は最後に到着するゆうづる10号です。食堂車は営業休止ですがはくつると共通の13連でした。
また東京駅へ出撃です。

東京駅に到着するブルトレのうち、後半グループの最初に到着するあさかぜ4号です。
9:30〜11:30までの間に6本が到着します。
20系時代の銀河で牽引機は既にEF65PFになってました。

20系は宮原区の車両が使用され、A寝台は1両です。
1980年7月からテールマークは絵入りのものに変更されました。
銀河の11号車側です。上野口の20系とは異なりナハネフ22が多かったような気がします。
東京駅での20系はこの他にもあさかぜ51・52号があり、20系最後の特急仕業でした。

この銀河も60-3改正で14系に置き換わりました。
富士のヘッドマークが旧デザイン当時のものです。

60-3改正にてほとんどのブルトレ牽引機がEF66に変わりますが、これを機にさくら・富士のヘッドマークが新しいものに変更されました。

EF65は東京機関区所属ですが、60-3改正で新鶴見に移管されています。
最後は57-11改正で登場した鳥海です。

特急いなほが57-11改正で新幹線接続特急となった関係で、改正で残った青森行のいなほは鳥海に改称されました。
青森運転所の485系でしたが、編成は改正前の東北特急と同じ食堂車入りの12連でした。

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