第1章:1980(昭和55)年(第1部)

1980年に撮影した大宮・東大宮界隈の画像です。

新幹線開業前最後の大改正となった53-10改正ダイヤ当時のもので、普電よりも特急・急行の方が本数の多い時代でした。
当時の東北・高崎線は近距離輸送よりも東京対地方都市間輸送に重点を置いていたのです。

当時の特急といえば東北線では485・583系、高崎線では183・189系が中心で編成もグリーン車・食堂車等を組み込んだ9〜13連という特急らしい堂々としたものでした。
急行はこの時すでにサハシはなくなっていましたが、グリーン車を連結しているのが当たり前という時代でモノクラス編成は当時は珍しい存在でした。その他には旧客やキハ58系・EF58牽引の荷物列車も姿を見せており、駅に1日居ても全く飽きる事はありませんでした。



489系の白山2号です。
金沢からの列車ですが、食堂車を連結しておらず2サロ編成です。
先頭車はボンネット・貫通・非貫通の各タイプが存在し、毎日日替わりメニューで先頭車は何が来るのか楽しみな列車でした。

ちょうどこの頃は大宮駅の新幹線工事が始まり、各ホームの上に人口基盤が建設されようとしていました。
↑の白山2号の3分後に入線するとき10号です。大宮通過でした。
一部の特急は大宮通過の設定となっており、宇都宮・高崎〜上野間ノンストップという列車が一部設定されていました。

181系もこの頃には既に老朽化が激しく53-10改正以降の181系ときは3往復のみとなり、残りは183系1000番台での運転でした。
とき10号の後を追う急行まつしま2号です。
全車仙台発の列車で12両編成ですが、上野到着後は上野駅地平ホームに隣接する留置線で車内清掃を行い、折り返し581M小金井行普電となります。

奥に跨線橋が見えますが木造の貧弱なもので通路幅は狭く列車が到着する度に混雑が激しくなりました。
跨線橋部分は現在の南側通路にあたる部分で、跨線橋の南側は今のエキュート大宮が存在する部分となります。
ひばり10号ですが、これも大宮通過です。

この列車が通過するのは13:47ですが、この次に4番線に到着するのは14:00発の普電(578M)まで何も来ないのでホームに人影はあまりありませんでした。

奥に見える跨線橋は今の北側通路に当たります。
大宮駅を出発するいなほ3号です。
青森発着の3・4号が青森の485系で、秋田発着の残り2往復が秋田の485系で運転されました。
左奥に見えるそば屋は現在では業者こそ変わりましたが、若干場所が移動し現在でも盛業中です。
画像は7番線に停車中の115系(6553M)からの撮影です。
大宮〜東大宮間を通過する急行なすの5号・日光5号です。
サロの青帯が残っていましたが、1981年までに消滅しています。

まだ土呂駅が無かった頃のもので、ちょうど東大宮操の北側になります。
付近は平屋の民家が多く周辺はまだ畑や空き地が多かった地域ですが、近年住宅開発が活発になり雰囲気が随分変わりました。
当時の東大宮操の様子です。

民営化された現在では電車しか留置されていませんが、当時は尾久に留置しきれない客車列車が東大宮操で留置されていました。
ゆうづるの24系、鳥海の旧客編成が確認できます。
通勤ラッシュに使用された115系も多数がここで昼寝をし、夕方には出て行きます。
この各列車が出て行った後には485系・183系が多数入ってきてここで一晩過ごします。
画像手前の留置線は機関車用のもので東大宮まで客車を牽引してきたEF58・EF62・EF80が使用しています。
また画像手前の敷設中の線路は当時建設が行われていた関東鉄道学園の訓練線で1980年夏頃に完成しました。
EF5865・101系等がここに入線し訓練に使用されていたのですが、1990年頃に東京・大宮総合訓練センターが完成し周辺の状況が一変しました。
はつかり9号の運用に入るために東大宮操から出庫する485系です。
↑の485系ですが、最後部はひばり(誤表示)でした。

画像左奥の手前に草が生えている空き地が見えますが、現在の東京・大宮総合訓練センターの建物はこの空き地に建設されました。
485系に続いて115系が出庫していきます。
この列車は上野に到着後、折り返し東北線563Mとなります。

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