第2章
新幹線開業前のひととき・・・昭和55年〜57年6月


1980(昭和55)年は国電地図が大幅に塗り替えられ、781系(量産車)、711系100番台、193系、東北・上越新幹線200系の第1陣48両、そして当時のファン最大の関心事だった103系モハ102-2000の登場(首都圏では京浜東北線中央快速線武蔵野線)をはじめ、55年10月1日ダイヤ改正より当時MS分離とも言われた横須賀・総武快速線の直通運転開始(貨物用の品鶴線を転用)、20系特急寝台客車の特急運用からの撤退など、比較的国鉄の話題が多かった年でもあった。
昭和53年に勃発した、21世紀となった今では異常ともいえるブルートレインブームがまだまだ尾を引いていた時期であったこと、そして昭和54年7月に運転された上野発のミステリートレイン『銀河鉄道999』(EF65 1000番台+12系客車使用)の影響もあり、55年夏は全国各地でイベント列車が多数運行され、また昭和56年8月には20系を使用した『駅』号が全国一周で運転されたことなどが当時の国鉄としては珍しいことではあった。

さて、特急関係では上信越方面の『とき』、『あさま』等は変化がなかったのだが、東北の485系にいきなり485系1500番台車が現れる。
これは北海道向けに781系量産車を投入したことにより、余剰となった485系1500番台22両が青森運転所に転属したもので、最大の特徴である4つ目の前照燈はそのままで異彩を放っていた。同所の485系と共通運用で『はつかり』・『やまびこ』・『ひばり』・『いなほ』・『白鳥』に使用された。
この22両の転入により、同数の在来車(主に200番台)が南福岡電車区に転配され、後述の55-10改正において九州地区での特急増発に使用されるのである。

札幌→青森
モハ484: 1501〜1507
モハ485: 1501〜1507
クハ481: 1501〜1508  計22両

青森→南福岡
モハ484: 204〜206、211、214、233、248
モハ485: 100〜102、107、110、129、146
クハ481: 230、236〜238、255、256、259、262 計22両

485系1500番台の転属は55年6月11日のモハ1503、クハ1504・1505を皮切りに、9月末まで続いた。
1500番台車の転入が一段落すると、今度は485系一般車の南福岡転属が8月末〜9月末にかけて行われている。

東北特急にとってあまり変化のなかった55-10改正

昭和55年10月1日に施行された全国ダイヤ大改正であるが、東北特急にとってはどこが大改正なの?というくらい意外と変化が少なかった。
まぁ、今回の目玉が北海道室蘭電化や横須賀線・総武快速線のスルー運転、関西113系のグリーン車の廃止、九州地区特急の整備および食堂車の廃止が主体だったので単に目立たなかっただけの話だが・・・

国鉄を取巻く環境はこのとき既に非常に厳しい状態となっており、今回の改正では都市間輸送、大都市圏での輸送を中心に効率的な輸送システムを具現化することとなった。このため、全国的に急行列車の廃止が目立った改正でもあった。
東北線関係では、急行『まつしま』6往復中下り2本、上り1本が廃止となり、急行『ざおう』3往復のうち季節列車だった1往復が廃止となった。
高崎・上越線関係では特急『とき』の停車駅追加があった他は大きな動きはなかった。

また、今回の改正では東北新幹線用の要員教育を図ることによる乗務員の捻出のため『ひばり』1往復(18・27号)が廃止され14往復となり、これにより余剰となる485系11両(サシ481を抜いた1編成分)が前述の青森の22両と共に南福岡電車区に転配されるなど、東北特急に早くも陰りが見えてきた。

仙台→南福岡
モハ484: 209、216、219、221
モハ485: 105、112、115、117
クハ481: 220、221
サロ481: 55  計11両

また、583系では昼行の特急は『はつかり』3往復、常磐線経由の『みちのく』1往復と変化がないものの、夜行の寝台特急は常磐線経由の『ゆうづる』1往復が季節列車に格下げされている。55-10改正における青森所属583系の動きは皆無である。

東北線上野口の普通列車で唯一グリーン車営業をしていた574M(165系13両編成)がグリーン車連結のまま自由解放に変更された。これで上野発着の普通列車でグリーン車を営業する列車が消滅したのである。
また急行形の話題として、前述のとおり急行列車が削減されたため、仙台運転所に最後まで残っていた453系4両(クモハ453・モハ452-19、サロ451-14、18)が455系8両と共に勝田区に転属し、仙台から453系が消滅した。それまでは同所の455系と混結で使用しており、主に8・9号車および11・12号車に入ることが多かった。
この転配により、勝田区のクモハ451・モハ450-5・10の4両が、理由は判らないが運用離脱している。

55-10での仙台455系の動き

仙台→勝田
クモハ455・モハ454: 30〜32
クハ455: 50、51

余談ながら、急行形電車は近郊形電車の場合とは異なり抑速系と非抑速系の混結は自在であるが、1両でも混結されると抑速ブレーキは使用できなくなる。
その他、仙台運転所では昭和52年から使用されていなかったサハシ455 5両が廃車となり形式消滅し、残る急行形ビュッフェ車は松本運転所のサハシ165のみとなる。

最後まで残ったサハシ455
サハシ455: 14、16、20、21、26
(全車昭和55年 8月25日付で廃車)

近郊形電車関係では、高崎線輸送力増強用として115系1000番台 4両編成×3本の12両が新前橋区に新製配置されている。この115系は今までの車両とは異なり、高崎寄りのクハ115に将来トイレに転用できる業務用室が設置されているという特徴がある。
今回、高崎線に新製配置された115系は以下の12両である。

モハ114: 1174〜1176
モハ115: 1102〜1104
クハ115: 1142〜1144、1217〜1219

昭和55年9月、東急車輌製


一方、客車では最後の20系使用の寝台特急『あけぼの』2往復が24系24形に置き換えられ、特急仕業が消滅した(ただし、60-3改正までは臨時『あさかぜ』で残る)。
車両の受け持ちは秋田で変更はない。
また、『あけぼの』24系化に伴ない、以下の玉突き転配が実施された。

24系25形新製(全車向日町配置)
オハネ25: 227〜246
オハネフ25: 211〜221
カニ24: 113〜116

向日町→青森
オハネ25: 1〜37
オハネフ25: 1〜15
カヤ24: 1〜8

青森→向日町
カニ24: 1、2

青森→秋田
オロネ24: 1〜9
オハネ24: 1〜34
オハネフ24: 1〜9
カニ24: 3〜5、8、19、20


55-10改正以降の『あけぼの』編成

←上野
号車 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
カニ24 オロネ24 オロネ24 オハネ24 オハネ24 オハネ24 オハネ24
オハネフ24
オハネ24 オハネ24 オハネ24 オハネ24 オハネフ24



最後まで残った特急用20系
(全車秋田配置)
太字は改正後、尾久に転属した車両

ナロネ21: 108、111、131、132、133、137、139〜141、147
ナハネ20: 112、128、131、146、203、204、217218、219、231240、241、249、301、302、311320322323、325〜337、339、345348、361、362
ナハネフ22: 17、1820、21、22
ナハネフ23: 8、13、14、1720、502
カニ21: 6、18、25〜27、124

※ナハネフ23 502はナハフ21 54からの改造

さて、55-10改正を過ぎたあたりから大宮付近では昭和57年開業を目指す新幹線工事が急ピッチに進むようになり、(大宮以南は未着工)、まるで周辺を威圧するかのようなごっついコンクリート製の新幹線構造物がいよいよ最終的な姿をあらわすようになった。
大宮駅構内の工事も本格化され、4番線〜12番線ホームの上には裸の鉄筋が通るようになり(現在の中央自由通路の土台)、いよいよ新幹線開業が近いのか・・・と当時は思ったものだった。また15両対応のホーム前後につくられた内装を黄緑色に塗られた(確かそうだったはず・・・)木造の跨線橋も翌年の昭和56年、中央通路の完成に伴い姿を消したのである。


昭和55〜56年、国電では以下の動きがあった。

1.昭和55年

まず、昭和54年の首都圏から仙石線への103系転出がらみで低運のクハ103に動きがあり、54年の山手線に続き、赤羽線からも低運クハ103が消滅した。
最後まで残っていたのはクハ103-49・50で、クハ103-301・302(山手線と共通予備のためウグイス色)に置換えられ同線のクハは全車ATCクハとなった。
次に冒頭でも述べたが、ファン最大の関心事だったモハ102-2000番台がついに登場した。
昭和54年にも103系は山手線を中心に大量に増備されたが、最多有形式モハ102は中央・総武緩行線用の-899で増備が打切られ、899の次はどうなるのだろうと思っていたファンが多かったと聞いている。
その結果は翌年の55年に京浜東北線に登場した(実際には中央快速線の方が先)、試作の900・910番台、地下鉄乗入れ用の1000・1200番台の上空を飛んで飛んでなんと2000番台に着地したモハ103-744+モハ102-2001という組合せとなり、ユニット間番号差は156から1257までに拡がった。
京浜東北線にモハ102-2001、2002をはじめとして7両が新製配置されたのは、横浜線に最後まで残っていたクモハ73 4両とサハ78 3両を置換えるためである。

京浜東北線用の新製車(蒲田配置)
モハ103: 744、745
モハ102: 2001、2002
クハ103: 809、816
サハ103: 496

昭和54年にATCクハは796、798で増備が打切られ、797、799以降は非ATC高運クハ(非ATC用の区分番台は設けられなかった)となって中央快速線、中央・総武緩行線に姿を現し始めたが、今回増備の809、816は再びATC仕様で落成している。

昭和55年8月17日に西浦和駅付近で大量の古タイヤが燃えた火災の影響でその後約1ヶ月も不通になった武蔵野線では、55-10改正用で103系6両編成1本が新製配置された。同線で初の103系である。

←府中本町
編成番号 クハ103 モハ102 モハ103 モハ102 モハ103 クハ103
14 822 2010 753 2009 752 815

この新製配置により、武蔵野線用101系1000番台が中央線で運用されるケースも発生した。

2.昭和56年

横浜線を担当している東神奈川電車区が昭和56年6月から車両無配置区となり、同区のウグイス色の103系全車が蒲田区へ転属している。この関係からか、この頃から京浜東北線にウグイス色の103系が大量に紛れ込むようになり、ドアの上には『京浜東北線』のステッカーが貼られた。また、56年12月から京浜東北線(大宮―蒲田間)および山手線のATC使用開始に伴い、7月1日から先行してATCを使用した試験運行が始まった。京浜東北線の103系のうち、下十条・蒲田区配置の編成についてはこれまでの7+3両から6+4両に変更され、ATCを装備していないクモハ103および低運のクハ103が中間に閉じ込められた。

京浜東北線の編成変更

<変更前>

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
Tc’ M' M T M' M Tc Tc' M' Mc


<変更後>

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
Tc' M' M T M' Mc Tc' M' M Tc

〜変更概要〜

1.9・10号車のクモハ103+モハ102を5・6号車に入れる
2.5〜7号車の3両を8〜10号車に持ってくる



8月には中央線に201系量産車が登場し、特別快速列車に投入された。このため中央快速線から高運転台・非ATCクハおよびモハ102-2000を中心にオレンジ色の103系が総武緩行線津田沼−千葉間の線増、および同線の101系置換え用として次々と津田沼電車区(現・習志野電車区)に転入し、黄色の中央・総武緩行線電車にオレンジ色の103系が混ざることになった。なお、201系の量産開始に伴い、101系の廃車が本格化(実際には昭和54年から)したのもこの時からである。
第1陣として中央線から転入した103系は以下の通りである。

豊田→津田沼
編成番号 Tc' M' M T M' M T M' M Tc
311 828 2019 762 772 2018 761 501 2017 760 821
312 824 2013 756 498 2012 755 497 2011 754 817

311は昭和56年9月2日、312は昭和56年9月10日に転入



さて、新幹線開業を目前にして1981(昭和56)年10月1日にダイヤ改正が実施されたが、この改正も東北・高崎線の特急・急行は殆ど変化はなく、北海道および首都圏を中心とした小改正に留まった。主な内容は、

1.北海道 石勝線の開業
2.東海道線急行『伊豆』・特急『あまぎ』を統合した特急『踊り子』の誕生(田町区153系の消滅および汎用形特急電車185系の登場)
3.総武線津田沼―千葉間の線増化
4.東海道線・横須賀線輸送力増強

と、上野口には関係ないものばかり・・・

56-10では東北・高崎・上越線ともダイヤ改正は実施しなかったのだが、以下の変更が行われている。

1.『ひばり』の食堂車の一部営業休止

56-10改正で14往復中5往復の食堂営業を中止した。これは翌年予定されている東北新幹線開業に備えたもので、食堂要員の関係で決まったもののようである。食堂を営業中止とした列車は以下の5往復である。

ひばり1・2・7・8・10・15・17・19・22・28号


2.『とき』に禁煙車を設置

上野―新潟の特急『とき』に在来線ではじめて禁煙車を設置した。12号車の1両のみ(自由席)で全列車が対象である。新幹線の場合と同じくステッカー表示で区分した。在来線特急の中で『とき』が選ばれたのは車両が限定運用となっているためである。


新幹線開業後は新潟の183系の一部が房総用に転用されるため、クハ183-1000番台車(1025〜1032)のATC取付改造が新津車両管理所(現・新津車両製作所)で始まった。
ATC改造は運転室周辺の大規模改造工事となり、工期も長期間かかるため、クハの車両不足解消および改正時そのまま転用することを見越してATC付きのクハ183-1501・1502の2両を特急『とき』に新製投入し、改造車の捻出を行っている。
また、同年12月には165系の置換え用、および新幹線開業時より運転される『新幹線リレー号』用として新前橋電車区に185系200番台車が新製配置されている。
第1陣として昭和56年12月〜昭和57年3月までに63両(7両×9本)が登場し、高崎線の他に浦和・下十条電車区の乗務員訓練のためになんと京浜東北線でも試運転が行われていたが、昭和57年3月10日から一部165系運用の置換えという形で急行『あかぎ4号』から165系と併結され使用開始された。使用列車は下記の通りで高崎線の普通列車にも使用された。
また、余剰となった165系は松本運転所へクハ165が転属し同区のサハシ165置き換えに使用されるほかは廃車解体された。この時から165系の形式廃車が始まったのである。

新前橋区185系投入に伴なう同区165系の動き

廃車
クモハ165: 4、6、18、19、27、29、39、40、41、57
モハ164: 4、6、18、19、27、29、39、40、41、43
クハ165: 28、50
サロ165: 5、8、23、49、94、95、120、121

転属
新前橋→松本
クハ165: 13〜16、18、31、35、40、43〜45

参考:これにより、最後まで残っていた松本運転所のサハシ165-1、2、4、6、8、10、52〜54およびサハ164-1、2が廃車され、両形式が消滅)

新前橋→豊橋
クモハ165・モハ164: 7、36
クハ165: 17、33、39


185系200番台使用列車(昭和57年3月10日〜同11月14日)

急行:あかぎ3・4号
    ゆけむり3・7・11・2・6・10号
    草津3・5・9・2・6・8号
    軽井沢
普通:高崎線879M(上野―籠原間165系と併結)
    上越線951M・950M・4925M
    信越線135M・128M
    両毛線621M・2475M・476M
    吾妻線2539M・1538M・2521M・2524M

このうち、草津6・8号・ ゆけむり11号は上野―新前橋間、165系と併結である。

続いて来る6月23日より運転開始される『新幹線リレー号』に対応するため、第2陣として185系200番台が7両編成×7本(うち予備1本)追加され、全車6月中に配置された。

また常磐線では国鉄初のオールロングシート近郊形となる415系500番台車が昭和57年1月に登場している。
室内の様子は当時最新鋭だった201系に準じた(というより殆ど同じ)もので、クハ411-600のトイレ横のみクロスシートが残されているがこれはトイレに出入りする際に着席している人の視線とぶつからないようにするためで、このような座席配置はキハ35に続いて2例目である。
第1陣として4両編成×9本の36両が登場し、401系初期形(主として低運転台車)9本が淘汰された。
この時点で残る401系低運転台車はK7・9・10の3本のみとなる。


激動の1年となる昭和57年

昭和57年の一般利用客にとって最大の話題といえば、東京周辺の国電で客室から運転席が見えるようになったことではないだろうか。
運転席の後にあるカーテンが4月15日から解放され、10年ぶりに前方の視界が楽しめるようになったのである。
が、実際に解放する運転士はごく一部で、殆どの列車はカーテンが閉じられたままであった。国鉄当局も開けるよう指導し、国労、動労も通達を出したと言っているのだが相変わらず閉めた運転士が多く、当時の国鉄の姿勢を象徴しているかのようだった。
しかし、徐々に解放される列車が増え、列車に乗る楽しみがまた1つ増えたなぁと当時は思った。京浜東北・山手線のATC付きのクハ103は開いていてもあまり前が見えず、困ったものである。

5月9日、東北線東十条―赤羽間で不発弾処理が実施され東北線上野―大宮間が14時頃まで運休となり、東北線経由の特急『はつかり7号』が常磐線経由で運転され話題となった。
私も当日、復旧直後の最初の上り列車(高崎線880M)に乗ったが、現場は同区間の赤羽線(現・埼京線)と分岐するあたりの新幹線高架下(当時工事中)である。

さて、開業を控え東北・上越新幹線200系電車の製造も順調に進み、57年3月から東北新幹線開業を前に総合監査および試運転が始まり、試運転ながら210km/hで走行する200系電車の姿を目にするようになった。
一方、在来線特急の方は55-10改正以降、大きな変化もなく推移してきたが、ここへきて新幹線開業の影響とも言える変化が開業を目前に早くも出てきてしまったのだ。
今まで12両編成で運転されてきた『はつかり』・『やまびこ』・『ひばり』の一部列車が5月頃から10両に減車されてしまったのである。
これは東北・上越新幹線の開業が当初の予定(57年春:具体的な期日は不明)からそれぞれ6月23日・11月15日にずれ込んだ為青森・仙台持ち485系の検査・改造計画(主に九州へ転用される車両の改造と思われる)も狂い、工場入場検査計画の完全消化が不可能となったことによるものである。これによる減車は輸送影響の少ない日および列車を限定して実施され、減車されたのは各列車とも指定席の8・9号車(モハ484・485)である。

5/10〜6/15:はつかり8号
5/11〜6/16:やまびこ3号
5/12〜6/17:やまびこ6・7号
5/13〜6/18:やまびこ4号・はつかり11号
5/18、5/20〜6/20、6/22:ひばり4・11・26号
5/19、5/21〜6/21:ひたち1・10・11・20号
5/20、5/22〜6/22:ひばり1・16・25号
5/21、5/23〜6/22:ひばり12・21号

←上野

TcM’MM’MTsTM’MTc

新幹線開業前日の6月22日、上り最終の『やまびこ8号』に「さよならやまびこ」のヘッドマークが取付けられた。

開業約半年前から185系200番台の増備、485系の編成変更など、このような状況を経て1982(昭和57)年6月23日の水曜日、いよいよ東北新幹線(大宮―盛岡間)の開業を迎えるのである。
また、平行する東北線では6月23日〜11月14日まで期間限定で暫定ダイヤが実施され、新幹線と在来線特急が同じ区間を併走する貴重なシーンが展開するのである。


第3章へ続く〜

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